JILPTのトピックです「安定を求める中国の大卒者」
「新卒者は国営/中央企業を好む割合が最も高く、72.6%に達した。次に、政府機関/政府系事業組織が34.6%で、外資系企業は33.8%であった。不安定な経済環境のなか、求職者が安定性を優先する傾向が顕著に見られる。就職する際に重要だと考える要因については、「給与・福利厚生」が83.3%と最も重視されており、次いで、「キャリアの展望と昇進機会」が75.7%で、「安定性(64.0%)」、「企業の実力と規模(53.2%)」なども上位にあがった」と述べている。
この記事の参考情報として、 https://ww.199it.com/archives/1653783.html
リスキリングなどという動物愛護的にも気持ち悪いカタカナで私たちを強要しないで!
映画『ぬけろ、メビウス!!(監督:加藤慶吾)』で本当の勉強とは何かを考えてみた。
本筋からそれてしまうかもしれないが、この映画はドゥルーズ、分析哲学、言語論的に「勉強とは何か」を語った * (千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』)を下敷きにして楽しんだ。
<あらすじ>
予想される未来に流され続きてきた主人公は、雇い止めの不安から始めた友人の宅建試験へのチャレンジを知り、主人公自身は宅建ではなく大学の教育学部の入試にチャレンジすることを決断する。
環境や他者から自分がつくられていると気づいた主人公。自ら決断を下し、いよいよ動きはじめる。すると見ている風景がもとの風景と異なることを知る。その後ふとしたことから恋人と離別し、職場を退職するなど、周囲は驚きを隠せない。
一周して戻ってくるとその向きが逆転するのがメビウスの帯である。主人公は本当の勉強をした。本当の勉強とは自己破壊・喪失であって、獲得ではない。同じところには戻らないのだ。 *(つまり前述の千葉著書いわく「来るべきバカ」になったのだ)
大学入学を目指したユニークさで、主人公はその後をどのように駆けぬけることができたのかはこの映画では明かされていない。観客はその後の主人公に会いたい、語り合いたいと猛烈に思うに違いない。*(来るべきバカは歓迎されるとともに、バカ同士のコミュニケーションは楽しいのだ)
よろしければ、映画を観て楽しんでください。
<参考 下敷き書籍>
千葉雅也(2020)『増補版 勉強の哲学 来るべきバカのために』文藝春秋社
本書の内容を私は簡潔に説明できませんが、次のようなことが書かれていると思います。
・ 勉強とは、これまでの自分の、自己破壊である。別の考え方に引っ越すこと、新しいノリに入ること。不慣れな言葉への違和感に注意すること。それは、特定の環境における用法から開放され、別の用法を与え直す可能性に開かれているのだ。言葉遊びこそ生の可能性を豊かにする。その意味で(玩具的な言語使用)=「ラディカルラーニング(深い勉強)とは、ある環境に癒着していたこれまでを自分を玩具的な言語の使用の意識化により、自己を破壊し可能性への空間に開くことである」
・ 環境のノリから自由になるには、それはつまりノリの悪い語りをすること(=自由になるためのスキル)である。その思考方法は「ツッコミ=アイロニー 根拠を疑って真理を目指す」と「ボケ=ユーモア 根拠を疑うことはせず、見方を多様化する」だ。勉強の基本姿勢はアイロニカルな姿勢であって環境のコードをメタに客観視することである。ただしアイロニーを過剰化せずに(絶対的に真なる根拠を得たい欲望に駆られるが、それは実現不可能な欲望だ。言語の破棄を目指すことになってしまう)、そこでユーモアへと折り返すことを推奨する。言語はそもそも環境依存的でしかないと認めることで、あらゆる見方への移動が可能になり、さらにはあらゆる言葉との接続が可能になる。それを続けると言語が意味飽和し、機能停止に陥るはずだが事実上私達の言語使用ではユーモアは過剰化しないでその見方が仮固定することになる。享楽的こだわりがユーモアを切断するのだ。それは私達一人ひとりに個性=特異性としての「享楽的こだわり」があるからだ。しかも享楽的こだわりは常に変化する。つまり続くのだ。
・ 自己アイロニーと自己ユーモアの発想によって、自分の現状に対する別の可能性を考える。身近なところから問題を見つけ、キーワード化し、それを扱うにふわさしい専門分野を探す。専門分野は深追い(アイロニー)方向と目移り(ユーモア)方向にきりが無くなる。したがって勉強を有限化する方法を考えなければならない。アイロニー的な有限化は「決断主義(逆説的に絶対的な無根拠こそが絶対的な根拠)であるがこれは回避すべき。ユーモア的な有限化は「比較の中断」だ。絶対性を求めず相対的に複数の選択肢を比較し続けるが、途中でベターな結論を仮固定し、また比較を再開する。それは個々人に享楽的こだわりがあるからこそ可能である)「保守的なバカ」から「来たるべきバカになるのだ」
つまり、映画の主人公は学歴社会や都会をアイロニーで、受験をユーモアとして新しい(来るべき)バカを目指しているのかもしれません。それは人の生のあり方といえます。